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しそうか・しゅうきょうか
思想家・宗教家

相応和尚(そうおう・かしょう) 

天長8年(831)-延喜18年(918)

平安時代前期の天台宗の高僧。俗姓は檪井(いちい)。現在の長浜市北野町に生まれる。幼少の頃から仏門を志し、比叡山に登り円仁(えんにん)に師事。厳しい修行を山中にて積んだ。葛川谷では不動明王を感得して葛川明王院を創建し、延暦寺では無動寺を開き、現在も宗教界でもっとも難しい荒行といわれている千日回峰行を創始した。その生誕地である小谷山周辺では、毎年春と秋に相応和尚にちなんだ「一日回峰行」が行われる。

菅原道真との親交が深かったといわれている。

五先賢の館

慈恵大師良源(じえだいし・りょうげん)

延喜12年(912)-永観3年(985)

平安時代中期の天台宗の僧。現在の長浜市三川町に生まれる。第18代天台座主(天台宗の最高位)を務め、比叡山中興の祖として日本仏教史に大きな足跡を残した。「慈恵」の諡号(しごう)を賜わったことにより慈恵大師と称されるが、正月三日に亡くなったことから「元三大師(がんさんだいし)」の通称で親しまれている。

数々の霊験や説話が残されていることから、降魔大師・厄除大師・角大師・豆大師など様々な別称があり、現在でも広く民間信仰を集めている。 また全国の社寺に見られる「おみくじ」の創始者は良源だと言われている。

おみくじの元祖・元三大師

教如上人(きょうにょしょうにん)

永禄元年(1558)~慶長19年(1614)

諱は光寿。本願寺第11世顕如の長子として誕生。当時の本願寺は、大坂石山合戦で織田信長と対立していたが、和睦により父顕如は紀伊鷺森に退出。しかし、教如は籠城を続け(大坂拘様)、顕如に義絶された。4カ月あまりの籠城ののち敗北し各地を流浪。本能寺の変後に顕如と和解、文禄元年(1592)本願寺を継職するが、母如春尼と対立し、豊臣秀吉の命により隠居した。隠居中も宗主意識を持ち続け、様々な活動を通じて、教如を支持する“教如教団”を形成した。

慶長7年(1602)、徳川家康から京都六条烏丸に寺地を寄進され、東本願寺を創立。

五村別院と教如上人

 

近角常観(ちかずみ・じょうかん)

明治3年(1870)-昭和16年(1941)

真宗大谷派の僧。現在の長浜市湖北町延勝寺の真宗寺院に生まれる。東本願寺経営の育英教校に学び、清沢満之(きよざわ・まんし)らと東本願寺の宗門改革運動に参加。

明治33年(1900)欧米の宗教事情を視察した体験から、信仰体験を語り継ぐ場として求道学舎を創設。明治34年(1901)には、常観が中心となり、ベルリンで釈尊降誕祝賀会が開催。これをきっかけに、「花まつり」の名称が、一般に使われるようになった。

親鸞聖人の信仰を伝える歎異抄(たんにしょう)を原点に自らの入信体験を説き、仏教界のみならず広く大きな影響を与えた。また広く公衆に向けて信仰を説く場として東京本郷にキリスト教会風の求道会館を創設した。求道会館は現在、東京都の有形文化財に指定されている。

著作に「懺悔録」「人生と信仰」などがある。

求道会館

西田天香(にしだ・てんこう)

明治5年(1872)-昭和43年(1968)

宗教家、一燈園(いっとうえん)の創始者。本名は西田市太郎。現在の長浜市大宮町で商家に生まれた。青年時代に北海道開拓のリーダーとして移住したが挫折。帰郷後は争いのない生き方を求め、舎那院で大霊覚。一燈園を創設した。

1921年著の『懺悔の生活』は当時のベストセラーとなった。第二次世界大戦後に参議院に当選。第1号の長浜市名誉市民。その影響を受けた倉田百三は天香をモデルに「出家とその弟子」を執筆したといわれる。

一燈園

田代俊孝(たしろ・しゅんこう)

1952年~

日本の仏教学者、生命倫理学者。博士 (文学)。同朋大学大学院教授で三重県の行順寺住職。現在の滋賀県米原市に生まれ、大谷大学大学院博士後期課程を満期退学。カリフォルニア州立大学客員研究員、同朋大学文学部助教授、教授を経て現在、大学院文学研究科長・教授。2004年に博士(文学)。真宗学が専門で親鸞の思想を研究しているが、その立場から、デス・エデュケーション(いのちの教育)やビハーラ(仏教ホスピス)を提唱し、その分野の理論的リーダーである。国内はもとより、アメリカやブラジルの大学で仏教の死生観や東洋の生命観について講義している。マスコミにも出演している。また、名古屋大学医学部の生命倫理委員、非常勤講師、バイオやゲノムの専門審査委員などを務めている。

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