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ぶしょう
武将

豊臣秀吉(とよとみ・ひでよし)

天文6年(1537)-慶長 3年(1598 )

初名木下藤吉郎、のちに羽柴秀吉。織田信長が浅井長政の居城を攻めた際、武功を上げたことにより、天正元年浅井氏の領土を与えられ初めて城持大名となる。その後、山城の小谷にかわって琵琶湖畔の今浜(現在の長浜市公園町)に築城。長浜の名は武運長久を願うと共に主君信長の一字を拝借し、ゴマをすったとも言われている。

秀吉は城下町の長浜で、町人の代表者による合議制システムの自治制度、町屋敷300石の年貢免除、自由商業主義の楽市楽座を取り入れた。これにより長浜は、それまでの中世都市ではなく、近世城下町の先駆けといわれる。

長浜城歴史博物館

石田三成(いしだ・みつなり)

永禄3年(1560)-慶長5年(1600)

現在の長浜市石田町に土豪石田正継の子として生まれる。長浜城主の秀吉との出会いのエピソードは「三献の茶」として有名で、現在でも観音寺(米原市朝日)に茶の水を汲んだと伝わる井戸が残されている。観音寺は石田村の隣村にあり、昔から石田氏の崇敬篤かった寺である。しかし、秀吉と出会った村は、長浜市木之本町とする説もある。

三成は秀吉の側近となり、五奉行のひとりとして活躍した。天正10年(1582)織田信長の死後は、次なる天下の覇権を狙う秀吉を支えて天下統一に尽力し、軍行政・外交政策にその手腕を発揮した。文禄4年(1595)近江国(滋賀県)佐和山城主となる。秀吉の死後は天下統一を狙う家康と対立、関ヶ原の戦いに敗れた。

浅井亮政(あざい・すけまさ)

延徳3年(1491)-天文11年(1542)

現在の長浜市小谷丁野町(おだにようのちょう)に生まれる。戦国時代における北近江の国人浅井氏の初代当主。近江浅井氏の全盛期を築いた浅井長政の祖父。浅井三姉妹の曾祖父で、豊臣秀頼、徳川家光、千姫は玄孫にあたる。

小谷城を本拠とする国人で、北近江守護・京極氏の被官として勢力を徐々に伸ばし、越前の朝倉孝景や美濃の斎藤道三らと結び北近江の覇者となる。南近江・守護の六角定頼とは終始、近江の覇権を争って戦った。

小谷城戦国歴史資料館

浅井久政(あざい・ひさまさ)

大永6年(1526)-天正元年(1573)

“浅井三代”の初代亮政の長子で、浅井氏の二代目。亮政の側室(尼子氏)に生まれた久政が天文11年(1542)父の死により家督を継ぐ。久政は内政に力を入れるが、天文22年(1553)に六角義賢(よしかた)と戦って敗れ講和を結んでいる。

賢政(後の長政)を支持する重臣らによって隠居させられたが、その後も領国支配を側面から支え続けた。織田信長に小谷城(長浜市湖北町)を攻められ、長政より1日前に自刃。徳勝寺(長浜市平方町)に葬られた。

小谷城戦国歴史資料館

浅井長政(あざい・ながまさ)

天文14年(1545)-天正元年(1573)

浅井久政の長男として生まれる。父久政が城主の時代には賢政と名乗るも、若くして近江・浅井家の家督を継ぎ、妻であった六角氏の家臣の娘を離縁し「長政」と改名した。

その後、織田信長の妹市を娶り二男三女(茶々、初、江の浅井三姉妹)をもうける。浅井氏を北近江の戦国大名として成長させ、妻の兄・織田信長と同盟を結ぶなど浅井氏の全盛期を築いたが、のちに信長と決裂して織田軍との戦いに敗れて自害。浅井氏は滅亡した。

小谷城戦国歴史資料館

山内一豊(やまうち・かずとよ)

天文14年(1545)-慶長10年(1605)

尾張国守護代・織田伊勢守家の家老山内盛豊の三男として、現在の一宮市木曽川町に生まれる。父・盛豊が織田信長に討たれ流浪の身となるが、その後信長軍に参加、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)の与力となる。朝倉・浅井氏との姉川の戦いで軍功を挙げた功績により、天正元年(1573)に初の所領地として現在の長浜市唐国町で400石を与えられる。信長の死後も秀吉の家臣として活躍し、賤ケ岳の戦いや小牧・長久手の戦いに参陣、その後、3代目長浜城主となったが、天正13年(1586)に長浜を襲った天正大地震によって一人娘の与祢(よね)姫を失う不幸にも見舞われている。

秀吉の死後、関ヶ原合戦では徳川家康につき、土佐24万石を得て初代土佐藩主となる。

妻・千代の内助の功により名馬を買った話は有名。また一豊の母法秀院の墓は米原市宇賀野にある。妻の千代は隣村の飯村の出身とされる。

大谷吉継(おおたに・よしつぐ)

永禄2年(1559)-慶長5年(1600)

越前敦賀城主 。現在の滋賀県長浜市余呉町小谷(おおたに)の生まれ。地名は吉継にはばかって小の字を使った伝えられている。

豊臣秀吉に小姓として仕えて以来、その才を愛され、奉行の一人となった。天正11年(1583)の賤ヶ岳の合戦では賤ヶ岳の七本槍に次ぐ戦功を挙げ、天正13年(1585)刑部少輔に叙任される。その後、九州征伐での戦功で越前敦賀五万石を領し、秀吉に「吉継に百万の軍勢を指揮させてみたい」と言わしめた。一説には吉継は、石田三成の推挙で秀吉に登用されたと言われ、三成とは同年代の親友同士であった。秀吉の没後、三成に家康の討伐計画を知らせられ、吉継は三成に思いとどまらせようと説得する。しかし三成の意思が固いと知ると勝ち目のないことを知りながら関ヶ原では西軍に付いた。患っていた病により崩れた顔を白い布で覆い、輿に乗り指揮を執ったという。
今も米原駅近く徒歩10分の下多良神社近くに吉継の首塚が残されている。

敦賀観光協会

片桐且元(かたぎり・かつもと)

弘治2年(1556)-慶長20年(1615)

「賤ヶ岳七本槍」の一人。現在の長浜市須賀谷町の浅井氏配下の国人領主・片桐直貞の長男として生まれる。

天正元年(1573)浅井氏は織田信長に攻められて滅亡するが、翌年長浜城主となった豊臣秀吉に弟・貞隆と共に仕えることとなった。 天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いで、加藤清正・福島正則らとともに目ざましい武功を挙げ、賤ヶ岳七本槍の一人に数えられた。

文禄4年(1595)摂津茨木一万二千石に加増され茨木城主となり、また慶長3年(1598)小出秀政らと共に豊臣秀頼の傅役に任命され大坂城代となった。秀吉の死後は、豊臣秀頼の補佐をしていたが、大坂方に疑われたことから大坂の陣では徳川軍に参加した。

五先賢の館

脇坂安治(わきざか・やすはる)

天文 23年(1554)-寛永3年(1626)

「賤ヶ岳七本槍」の一人。淡路洲本藩主。後に伊予大洲藩初代藩主 。龍野藩脇坂家初代。浅井氏の家臣脇坂安明の長男として、現在の長浜市小谷丁野町(おだにようのちょう)で生まれる。

浅井氏滅亡後は明智光秀に仕えたが、その後、豊臣秀吉の配下となる。天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いで軍功を挙げ賤ヶ岳七本槍の一人に数えられ、秀吉から山城国に三千石を与えられた。

天正13年(1585)には従五位下・中務少輔に叙任、淡路洲本城三万三千石の城主となった。関ヶ原の合戦では、当初は西軍に属し途中から東軍に寝返ったが、戦前に通款を明らかにしていた為、裏切り者ではないと見なされ家康から所領を安堵された。

たつの市

田中吉政(たなか・よしまさ)

天文17年(1548)-慶長14年(1609)

初代筑後国主。現在の長浜市三川町に生まれる。

宮部継潤の家来となり、その後に秀吉の直臣に取り立てられ、関白秀次の筆頭家老として配属された。

天正18年(1590)には三河岡崎城主として五万七千石を与えられた。関ケ原の戦いでは東軍に属し、岐阜城攻めなど功を挙げ石田三成の本城佐和山城を攻略。さらに石田三成を捕らえた功などにより、筑後国三十二万石を与えられ柳川城を居城とし国内に支城を配して統治を行った。

また、城下町建設および河川改修をはじめとする土木工事に自らその指揮監督にあたり手腕を発揮、掘割を整備することで水運や稲作のための用水路を整備し近代的な街作りを行うなど、河川改修や領内の産業振興に成果をあげている。

宮部継潤(みやべ・けいじゅん)

生年不詳 -慶長4年(1599)

現在の長浜市宮部町に生まれる。父は土肥真舜。宮部長房の父。もとは比叡山の僧侶であったが、故郷に戻り、近江の戦国大名・浅井長政の家臣として仕えるようになる。武勇にも優れ、長政に従い織田信長との戦いで活躍し、横山城の城将であった羽柴(豊臣)秀吉と対峙したが、元亀3年(1572年)秀吉に応じて信長に下った。

本能寺の変後、秀吉が大きな権力を握るようになると鳥取城主となり、五万石を領した。秀吉からの信任は厚く、晩年は秀吉の御伽衆として秀吉の相談相手を務めながらも、重臣として政務にも関わった。

磯野員昌(いその・かずまさ)

生没年共に不詳

現在の長浜市高月町磯野の国人。

浅井氏の重臣として浅井長政が美濃国に侵攻した際に先鋒を務め、永禄6年(1563)より佐和山城主となる。元亀元年(1570)の姉川の合戦においても浅井勢の先鋒として出陣し、兵力に勝る織田信長勢の隊を破る活躍を見せた。

この員昌の猛攻は「員昌の姉川十一段崩し」という逸話として現在も残されている。元亀2年(1571)佐和山城を開城し信長に降伏。その後は信長に取り立てられ近江高島郡を与えら、越前一向一揆攻めなどにも従軍したが、天正6年(1578)出奔して高野山で出家したといわれている。

渡辺了(勘兵衛) (わたなべ・さとる)

永禄5年(1562)-寛永17年(1640)

渡辺勘兵衛の名で有名。現在の長浜市湖北町速水の土豪、渡辺右京の子として生まれる。近江・山本山城主阿閉貞征(あつじ・さだゆき)に仕えた後、羽柴秀勝(織田信長の子・秀吉の養子)、中村一氏(近江水口城主)、増田長盛(大和郡山城主)と仕え、関ヶ原敗戦での大和郡山城開城時の際だった進退で注目を浴び、この後藤堂高虎に仕えた。

大坂冬・夏の陣で戦功があるなど「槍の勘兵衛」と恐れられたが、主君高虎と対立し、睡庵(すいあん)を名乗り京で隠棲した。「渡辺勘兵衛武功覚書」を残している。

藤堂高虎(とうどう・たかとら)

弘治2年(1556)-寛永7年(1630)

高虎は主君を何度も変えたことで有名だが、最初に仕えたのが浅井長政。

元亀元年(1570)に浅井氏の武将として姉川の戦いで初陣し、その後は秀吉の下で2度の朝鮮出兵に参加するなど秀吉直属の大名となる。秀吉の死後は徳川家康に仕え、慶長13年(1608)に伊予今治から伊賀国・伊勢国に転封となると二十二万三千石余の津・伊賀上野城主となり、外様大名ながら大坂方をにらむ要衝の地を任される。

また家康の命により膳所城(滋賀県大津市)・丹波亀山城(京都府亀岡市)・江戸城・丹波篠山城(兵庫県篠山市)など数多くの築城や修築を行い、築城の名手といわれた。家康の死後は日光東照宮の造営にあたっている。

黒田官兵衛(孝高)(くろだ・かんべい)

天文15年(1546) -慶長9年(1604)

黒田氏は賤ヶ岳の山麓、現在の長浜市木之本町黒田の出身とされる。黒田氏の出身は長浜市南部から米原にかけての黒田地区の説もある。

通称官兵衛、出家剃髪してからは如水(じょすい)の名で知られる。播磨姫路城主小寺政職(まさもと)に父とともに仕えていたが、その後豊臣秀吉の軍師となり、同じく秀吉の軍師であった竹中半兵衛とはその卓越した軍略から「二兵衛・両兵衛」と称えられた。

本能寺の変が起こると秀吉に「天下取りの好機」と進言し、四国征伐・九州征伐でも力を発揮。 ついに秀吉を天下人へ押し上げ、自身も豊前国十二万石の大名へと出世した。秀吉の天下統一後は出家して如水と名乗り家督を長男に譲ったが、関ヶ原の戦いでは子の長政とともに家康の東軍につき活躍した。

羽柴秀勝(はしば・ひでかつ)

元亀元年(1570)-天正4年(1576)
豊臣秀吉の長男。秀吉が近江国・長浜城主時代に側室・南殿との間にもうけた長男で、幼名は石松丸(いしまつまる)。

秀吉の正室のおねには子がなかったため、秀吉にとっては初めての男児だったが6歳で夭折。妙法寺(長浜市大宮町)に葬られた。秀吉は幼くして没した息子を偲ぶためか、彼の名である「秀勝」を養子のうちの何人かに名乗らせており、羽柴秀勝や豊臣秀勝もその一人である。存在を疑問視する声もあるが、秀吉が竹生島宝厳寺の復興をした際の「竹生島奉加帳」に、南殿・石松丸と記されており、秀勝の菩提寺妙法寺には、童子の絵像(昭和27年の火災で現物は焼失)や、秀勝の墓とされる石碑、位牌が伝わっている。また長浜で毎年4月に行われる長浜曳山まつりの始まりは、当時長浜城主だった秀吉が、男子誕生に喜んで祝いの砂金を町民に贈り、それに応えて町民たちが山車を作って長浜八幡宮の祭礼に曳き回したことが始まりとされている。

妙法寺

増田長盛(ました・ながもり)

天文14年(1545)-元和元年(1615)
豊臣政権五奉行の一人。現在の長浜市益田町に生まれる。天正元年(1573)28歳で羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に召し出される。武家事紀(ぶけじき)には「長盛もっとも損得の心計に長ず」とあり、豊臣政権下ではその財政に長けた部分をかわれ、石田三成とともに官僚的な役割を担っていたとされる。文禄4年(1595 )大和国郡山城二十万石の所領を与えられ、豊臣政権五奉行となった。秀吉の死後、関ヶ原の合戦では西軍の中心として大坂城に入るが、その一方で家康に密告書を送るなど、東西双方に味方をする形を取ったとされる。西軍敗戦後長盛は、家康に降を願ったが許されず、所領没収の上、高野山に追放された。

今も、長浜信用金庫本店西に長盛の屋敷跡の石碑が残っている。

山本義経(やまもと・よしつね)

生没年共に不詳

源義光の系譜を引く近江源氏。父は義光の長男で佐竹氏の祖となった源義業の次男山本義定。山本山城主(長浜市湖北町山本)。近江国山本郷を本拠とし山本冠者と称した。安元2年(1176)延暦寺の僧を殺害したため佐渡へ配流されるが、治承4年(1180)に帰京。治承・寿永の乱の初期に近江国で挙兵した。本姓が源氏であるため正式な姓名は源義経であり、源頼朝の弟である源義経と同姓同名であったため「義経二人説」で知られる。

北畠具行(きたばたけ・ともゆき)

正応3年(1290年)~ 正慶元年/元弘2年6月19日(1332年7月12日)

鎌倉時代末期の公卿。北畠師行の子で、村上源氏北畠家の庶流にあたる。

北畠家初代の北畠雅家の孫にあたり、北畠宗家4代目の北畠親房は具行の従兄弟違(従兄弟の子供)にあたる。親房とともに後醍醐天皇に仕えて、従二位権中納言に昇進する。1331年、後醍醐天皇が倒幕計画を立てると、具行も主要メンバーの一人となる。このときの計画は失敗したため、具行も鎌倉幕府軍に捕えられた(元弘の変)。翌1332年、京極高氏(佐々木道誉)によって鎌倉に護送される途中、幕府の命により近江国柏原(現在の米原市)で斬られた。

「ばさら」と呼ばれた高氏は、公家である具行のことも忌み嫌っていたが、死に臨んでの具行の態度には高氏も感服し、柏原宿(清滝寺)に一ヶ月ほど留め、幕府に対して助命を嘆願したが叶わず、その別れを惜しんだと伝わる。前の晩に二人はしばし談笑し、翌日具行は剃髪(出家)後に処刑されたが、処刑前に高氏に対し、丁重な扱いに感謝の意を述べたと伝わる。墓所として、米原市柏原に貞和三年(1347年)建立の宝篋印塔が残り、「北畠具行墓」の名称で国の史跡に指定されている。

佐々木氏信(ささき・うじのぶ)

承久2年(1220年)~永仁3年(1295年)

鎌倉時代中期の武将。佐々木氏支流京極氏の始祖であり、京極 氏信(きょうごく うじのぶ)とも呼ばれる。父は佐々木信綱、母は北条義時の娘とされる。大原重綱、高島高信、六角泰綱の弟。子に頼氏、範頼、満信、宗綱。

仁治3年(1242年)に父が死去し、江北に在る高島、伊香、浅井、坂田、犬上、愛智の六郡と京都の京極高辻の館を継ぐ。これにより子孫は後に京極氏と呼ばれるようになり、江南と京都の六角堂近くの館を継いだ三兄の泰綱は佐々木本家を継ぎ六角氏の祖となる。

文永2年(1265年)に引付衆、翌年には評定衆に加わり、弘安6年(1283年)には近江守へと任ぜられ、この頃には後に京極氏の菩提寺となる清滝寺(後の徳源院)を創建している。永仁3年(1295年)5月3日に76歳で死去。墓所は米原市の徳源院。

京極道誉(きょうごく・どうよ)

永仁4年(1296)-応安6年(1373)

別名・佐々木道誉・佐々木高氏(たかうじ)。武芸のみならず、連歌、茶、花などに通じ、その権勢と派手な振る舞いから婆娑羅(ばさら)大名と呼ばれた。

京極(佐々木)宗氏(むねうじ)の三男として生まれ、北近江の守護であった京極家の家督を継ぐ。鎌倉幕府では執権北条高時に仕え、自らの名前に高時の名から一字をもらい「高氏」と称し、その後、高時が出家する際に自らも剃髪し「道誉」と号した。元弘(げんこう)の乱以後は足利尊氏(たかうじ)に従い、室町幕府の創設に関与。近江・飛騨・出雲・若狭・上総・摂津の守護を歴任した。建武3年(1336)には、現在の長浜市公園町に、北陸の南朝方に備えて今浜城を築き、家臣の今浜氏の居城としている。今浜城はその後一旦廃城となり、天正2年(1574)に豊臣秀吉が今浜城跡に長浜城を築き地名も今浜から長浜に改めている。

足利尊氏のもとでは、高師直、土岐頼遠と並び、婆裟羅三傑のひとりとしてその名を馳せた道誉だが、建武4年(1337)、勝楽寺 (滋賀県甲良町)に城を築き、以降没するまで隠棲したという。

京極高豊(きょうごく・たかとよ)

江戸時代前期から中期の大名。讃岐丸亀藩2代藩主。丸亀藩京極家4代。

1662年(寛文2年)に父の死により家督を継いだ。寛文12年(1672年)、幕府に請願して近江の所領と播磨国2村を交換し、同地にあり京極氏歴代の菩提寺であった近江清滝寺を復興、付近に散在していた墓碑を一カ所に集めて整理し三重塔を寄進し歴代当主の墓を集めて並べ、寺院名を父の法名に基づき徳源院と改めた。この三重塔は現在、滋賀県の指定文化財に指定されている。墓所は米原市の徳源院。

京極高次(きょうごく・たかつぐ)

戦国時代から江戸時代初期の武将、大名。近江大津藩主、若狭小浜藩初代藩主。

京極氏は北近江の守護で本来は浅井氏の主筋に当たるが、臣下の浅井氏の下克上を受け、高次はその庇護のもと、浅井の居城内で生まれた。のちに豊臣秀吉の側室である妹(姉との説もある)・松の丸殿/寿芳院や、淀殿の妹である正室・初(高次の死後は、常高院)があまりにも有名であることから、その七光りで出世したとされ、蛍大名とささやかれたが、戦国武将としての能力も有しており、関ヶ原の戦いに先立つ大津城の戦いでは、居城の大津城に篭もって1万人を超える西軍の大軍勢を食い止め、関ヶ原の主戦場へと向かわせなかった。戦後、その功により若狭一国を与えられて国持大名となり、弟高知と並んで近世大名京極氏の礎を固め、御家の再興を果たした。墓所は米原市の徳源院。

北条仲時(ほうじょう・なかとき)

鎌倉時代末期の北条氏一門。鎌倉幕府最後の六波羅探題北方である。普恩寺流で第13代執権である北条基時の子。

元徳2年(1330年)12月27日、六波羅探題北方となる。元弘元年(1331年)の元弘の乱で、挙兵して笠置山(京都府相楽郡笠置町)に篭城した後醍醐天皇を攻め、天皇を隠岐島に配流する。

元弘3年/正慶2年(1333年)、後醍醐の綸旨を受けて挙兵に応じた足利尊氏に六波羅を攻められ、六波羅探題南方の北条時益とともに、光厳天皇、後伏見上皇、花園上皇を伴って東国へ落ち延びようとしたが、道中の近江国(滋賀県)で野伏に襲われて時益は討死し、仲時は同国番場峠(米原市番場)で再び野伏に襲われ、さらには佐々木道誉の軍勢に行く手を阻まれ、やむなく番場の蓮華寺に至り天皇と上皇の玉輩を移した後に、本堂前で一族432人と共に自刃した。この史実は、増鏡、梅松論、太平記に詳しく記載されている。天皇と上皇は道誉に保護されて京都へ戻された。蓮華寺には自刃した432人の五輪塔群がある。

 

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