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せんごくのじょせい
戦国の女性

浅井三姉妹(あざいさんしまい)

浅井長政とお市の娘で「浅井三姉妹」の名で知られる。長女・茶々(淀殿・よどどの)、次女・初(常高院・じょうこういん)、三女・江(崇源院・すうげんいん)。

小谷城で生まれる。天正元年(1573)母お市の兄、織田信長により小谷城は落城し、父浅井長政は自害、母お市と三姉妹は信長の元に送られた。本能寺の変で信長が憤死した後、母お市は柴田勝家に嫁いだため三姉妹も北ノ庄城に移った。しかし勝家も豊臣秀吉と対立し賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れると、天正11年(1583)北ノ庄は秀吉に攻められ落城。勝家と母お市は自害し、三姉妹は秀吉の庇護を受けることとなった。

江のふるさと滋賀

茶々(ちゃちゃ)

永禄12年(1569)-慶長20年(1615)
浅井長政とお市の娘で「浅井三姉妹」の長女。後の淀(よど)殿、朝廷の賜名は浅井菊子(あざい・きくこ)。

天正16年(1588)、豊臣秀吉の側室に迎えられ、鶴松(3歳で夭逝)、拾(ひろい・後の豊臣秀頼)と2人の子供を授かる。秀吉の跡継ぎを産んだ唯一の女性として、山城国淀城を与えられたため、以後「淀」と呼ばれるようになった。秀吉の死後は秀頼の後見人として豊臣家の家政の実権を握った。慶長20年(1615)大坂の陣において、徳川家康に攻められた大坂城は落城。家康から自刃を命じられ、茶々は秀頼とともに自害して果てた。秀吉の側室時代には長政・お市・勝家の葬儀を執り行った。高野山持明院(じみょういん)の長政、お市の肖像は天正17年(1589)に茶々が描かせたものだといわれる。

高野山持明院

初(はつ)

永禄13年(1570年)-寛永10年(1633)

浅井長政とお市の娘で「浅井三姉妹」の次女。常高院(じょうこういん)。

天正15年(1587)秀吉の計らいで、大溝城(おおみぞじょう)主でいとこの京極高次に嫁ぐ。

高次は関ヶ原の戦いの前哨戦である大津城の籠城戦で、西軍の足を止めた功にによって若狭小浜を与えられる。慶長14年(1609)高次が亡くなると剃髪して常高院と号す。慶長19年(1614)と翌年の大坂冬・夏の陣では豊臣と徳川が争い、仲を引き裂かれた姉茶々と妹江との間に立ち和平交渉に尽力したが、大坂城落城により姉茶々と甥の秀頼を失う。寛永7年(1630)、夫高次、父浅井長政、母お市の菩提(ぼだい)を弔い小浜の地に常高寺を開山。晩年の常高院は江戸京極屋敷で暮らし、寛永10年(1633)病没。遺言により遺骸は若狭小浜に移され常高寺に葬られた。高次との間に子はなく、妹江の娘で2代将軍徳川秀忠の四女初姫を養女とし、側室の子で嫡子(ちゃくし)の忠高に嫁がせている。

江(ごう)

天正元年(1573)-寛永3年(1626)

浅井長政とお市の娘で「浅井三姉妹」の三女。崇源院(すうげんいん)。江戸幕府第3代将軍徳川家光の母、第109代明正天皇の外祖母にあたる。

天正12年(1584)秀吉の命により、11歳で母お市の姉(お犬)の子、佐治一成(16歳)へ嫁ぐが、同年一成が小牧・長久手の戦いにおいて徳川家康に味方したため、秀吉の怒りにふれ離縁させられる。文禄元年(1592)再び秀吉の命により秀吉の甥秀勝の元へ嫁ぎ、完子(さだこ)をもうけるが文禄の役で秀勝は死去。文禄4年(1595)2度の政略結婚の後、秀吉の養女格として23歳で徳川秀忠に嫁ぎ、秀忠とともに「大奥」の制度を創設。一説には気性が激く、秀忠に側室をもつことを許さなかったともいう。秀忠との間には千姫(豊臣秀頼室)、家光(3代将軍)、和子(後水尾天皇中宮、明正天皇の母、後の東福門院)のほか2男5女を儲けた。また、豊臣秀勝との娘完子は姉茶々に、徳川秀忠との娘初姫は姉初に引き取られており、三姉妹の絆の強さが伺える。寛永3年(1626)江戸城西の丸で死去(54歳)死後従一位を追贈された。

お市(おいち)

天文16年(1547)-天正11年(1583)

尾張の武将織田信秀の娘、織田信長の妹。お市の方、小谷の方とも称される戦国随一の美女。

永禄4年(1561)北近江の浅井家当主・浅井長政に嫁ぐ。政略結婚ではあったが夫婦の仲は極めて睦まじく、長男万福丸、次男万寿丸、長女茶々、次女初、三女江(浅井三姉妹)の5人を産むが、次男は側室の子という説もある。元亀元年(1570)信長が朝倉討伐のため敦賀に攻め入ると、長政は朝倉救援の兵を挙げお市の兄と夫が敵対する。お市は敦賀にいる信長の許に陣中見舞いとして前と後ろを紐でしばった小豆袋を送り、信長は「袋の鼠」だと気付き窮地を脱出したという。天正元年(1573)信長が小谷城に攻め入り、お市は自害する長政と共に逝こうとしたが、長政に咎められて三姉妹と共に織田側に降った。長男は処刑されている。天正10年(1582)柴田勝家と再婚し、婚儀は岐阜城で行われ、お市は三姉妹を連れて越前北ノ庄城に向う途中、小谷城の麓の小谷寺(長浜市湖北町伊部)に詣で、自ら松の苗木を植え浅井氏の菩提を弔ったという。小谷寺には今もお市の念持仏だった「愛染明王」が残されている。天正11年(1583)勝家が豊臣秀吉に賤ヶ岳の合戦で敗れ、北ノ庄城も落城すると、お市は三姉妹を駕籠に乗せ秀吉の陣に送り届け、自らは勝家と最後を共に自害する道を選んだ。

於禰(おね)

天文18年(1549)-寛永元年(1624)

「おね」または「ねね」と呼ばれ、後に北政所と称された豊臣秀吉の正室。高台院。

永禄4年(1561)25歳の秀吉と結婚。天正3年(1575)秀吉が長浜城を築城すると、おねも長浜に移り住み城下町経営に尽力した。この長浜時代、夫婦は信長の四男於次丸(羽柴秀勝)、前田利家の娘豪、菊らを養子に迎えている。また加藤清正、福島正則、石田三成、大谷吉継ら秀吉の小姓達の母役を担い、我が子のように接したという。また、織田信長がおねに宛てた有名な手紙もこの時代のものとされ、その内容は「久しぶりに会ったあなたは美しさが増した。秀吉があなたに対し不満を言うのは言語道断だ。どこを探しても、あなたほどの女性をあの禿ネズミ(秀吉)が他に得られるわけが無いのだから、あなたは陽気に考え、奥方として堂々としていればいい。嫉妬などしないように。ただし、夫を立てる気持ちは忘れてはならない。この手紙は秀吉にも見せなさい」といったもので、読みやすいようひらがなが多く使ってあり、信長のおねに対する気遣いが感じられる。天正10年(1582)本能寺の変が起こり秀吉不在の長浜城が攻められると、おねは秀吉の親族や養子を引き連れて長浜城を抜け出した。その後秀吉が長浜に帰城し再会を果たしたが、清洲会議の後おねは思い出の詰まった長浜を後にした。その後秀吉が天下統一を果たし、おねは北政所と呼ばれるようになった。

千代(ちよ)

弘治3年(1557)-元和3年(1617)

山内一豊の妻。千代のへそくりで名馬を購入した逸話が有名。千代がいなければ一豊は国持ち大名にはなれなかったとまでいわれる。

近江浅井氏家臣、若宮友興(ともおき)(米原市飯)の娘として弘治2年(1556)に生まれる。その後、隣村(米原市宇賀野)に住む一豊の母に裁縫を習ったことが縁で一豊と結婚。元亀4年(1573)姉川の合戦で戦功をたてた夫一豊とともに長浜城下へ移住した。現在でも長浜市公園町には、一豊と千代が城下に構えていた屋敷跡の石碑が立っている。天正13年(1586)一豊に長浜城二万石が与えられると、千代は人事を担当。召し抱えた家老の家系から、後に幕末維新の土佐藩を支えた人物を多く排出している。千代は「長浜の春と秋までが一番楽しかった」と後に振り返ったとされるが、その秋に天正の大地震が発生し長浜城は倒壊。当時6歳だった娘の与祢(よね)姫を亡くしている。一豊と千代にとって長浜城は格別の想いが残る場所となった。土佐藩二十四万石の藩主まで登り詰めた夫を支え続け、夫の死後は剃髪して「見性院(けんしょういん)」と称し京都で隠棲した。

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