長浜鉄道スクエアは、長浜旧駅舎、長浜鉄道文化館と北陸線電化記念館の3施設をとおして、日本の鉄道の歴史を見て、ふれて、知ることができる鉄道の博物館です。

鉄道を、知って学ぼう鉄道を、知って学ぼう

鉄道クイズ(鉄道文化館・北陸線電化記念館)鉄道クイズ(鉄道文化館・北陸線電化記念館)

子ども駅長さん

何問正解できるかな?全問正解すればきみも鉄道博士だ!

長浜鉄道スクエアには、たくさんの鉄道クイズがおいています。かんたんな問題から、大人にもむずかしいクイズまで。ヒントは、スクエアの中に隠れてるかも?友達といっしょに考えて、遊びながら鉄道を勉強してみてください。

子ども駅長さん

鉄道クイズ

Q1

旧長浜駅舎ができたころ(明治15年)、長浜~大津間は鉄道連絡船が就航していました。大津まで行くにはどのくらい時間がかかったでしょうか。

こたえ

(1) 1時間半
(2) 2時間半
(3) 3時間半

Q2

旧長浜駅舎には、当時としては画期的な暖房設備がありました。それは何でしょうか。

こたえ

(1)暖炉(だんろ)
(2)囲炉裏(いろり)
(3)ストーブ

 
Q3

旧長浜駅舎ができたころ(明治15年)、長浜~敦賀間を走った機関車は、陸蒸気(おかじょうき)とよばれていました。
この陸蒸気、どこの国でつくられたものでしょうか。

こたえ

(1)アメリカ製
(2)フランス製
(3)イギリス製

探してみてね!探してみてね!

こたえは、ホームページの中にかくれています。
長浜鉄道スクエアには他にもたくさんクイズがあります。
ぜひ来てみてください♪

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長浜と鉄道史展示(鉄道文化館)長浜と鉄道史展示(鉄道文化館)

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日本で蒸気機関車が走りはじめたころ、長浜は鉄道の中心でした。
明治時代から、今までの長浜の鉄道史を勉強してみよう

長浜鉄道スクエアでは、鉄道のはじまりから現在に至るまでの長浜の鉄道史をパネルを使って紹介しています。明治のころ、長浜は、神戸・大阪の太平洋側から敦賀・北陸の日本海とを結ぶ鉄道交通の要所でした。その当時の様子を昔の写真や、ジオラマを使って紹介しています。

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POINT1明治16年当時の本州官営鉄道

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旧長浜駅舎

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長浜に鉄道が開通したころ、日本に鉄道は4つしかありませんでした。京阪神(太平洋)から北陸(日本海)を結ぶ交通路線は、物と人を運び経済を発展させる重要な路線であり、その要所に長浜がありました。

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旧長浜駅舎

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POINT2湖国を走った陸蒸気

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長浜を走った機関車は、特別に勾配線用として設計・製造されたイギリスのキットン社の蒸気機関車で1800形とよばれました。

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POINT3日本初の鉄道連絡船「太湖丸」

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びわ湖路線図

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1883年に就航した第一・第二太湖丸は大津~長浜間を3時間半で結ぶ日本で初めての鉄道連絡船でした。

また湖の船としても日本初の鉄船でした。

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びわ湖路線図

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POINT4浅見 又蔵(太湖汽船会社 頭取)

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浅見又蔵翁像

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慶雲館

浅見又蔵はびわ湖の汽船業をおこし、各汽船会社を統合した太湖汽船の創立に努力しました。太湖汽船会社の取締役、頭取(社長)を歴任しました。また、鉄道スクエアの向かいにある慶雲館は、1887(明治20)年、明治天皇皇后行幸啓にあたり行在所(休憩所)として建てたものです。

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浅見又蔵翁像

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慶雲館

トンネルの石額トンネルの石額

明治の有名人「伊藤博文」の石額

明治政府にとって鉄道の建設は、国をあげての一大事業でした。イギリスでの最初の鉄道開通から、遅れること50年。産業をおこし日本が海外の先進国に追いつくために、どうしても鉄道が必要でした。そのため政府は、国策の中心として鉄道建設を進めていきます。当時の政府の主だった人が、トンネルの石額を書いているのはそのためです。鉄道スクエアでは、3人が書いた石額を展示しています。

1人目伊藤博文(初代内閣総理大臣)

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伊藤博文

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柳ヶ瀬隧道石額

『萬世永頼』

旧北陸本線の柳ヶ瀬トンネル東口(滋賀県長浜市余呉町)にあった石額です。万世(ばんせい)永(なが)く頼(たの)むと読み。この鉄道が世のために働いてくれることをいつまでも長く頼りにするという意味です。

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伊藤博文

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柳ヶ瀬隧道石額

2人目黒田清隆(第二代内閣総理大臣)

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黒田清隆

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山中トンネル(信号場口)

『徳垂後裔』

旧北陸線山中トンネル(福井県南条郡南越前町)の山中信号場口にあった石額です。徳(とく)は後裔(こうえい)に垂(た)れると読み、この鉄路を完成させた徳は子々孫々まで残ることになるという意味です。黒田清隆の石額は、他にも3種類展示されています。

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黒田清隆

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山中トンネル(信号場口)

3人目後藤新平(鉄道院総裁)

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後藤新平

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旧北陸線子不知トンネル石額

『大享貞』(だいきょうてい)

旧北陸本線子不知(こしらず)トンネル(新潟県糸魚川市)にあった石額です。易経の「大いに亨(とお)り貞(ただ)しきに利(よ)ろし」の一文で鉄路事業を治めて大いに通ずるという意味です。

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後藤新平

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旧北陸線子不知トンネル石額

維新政府が国運をかけた鉄道建設

イメージ初代駅長  高橋 善一氏日本鉄道の父  井上 勝氏

長浜の長い歴史の中で、幕末から明治にかけては、まちの一大変革期でした。なかでも1882年(明治15)、日本で7番目に敷設された長浜~敦賀間の鉄道開通(柳ヶ瀬トンネル部分を除く)は、一番大きな出来事です。1869(明治2)年、政府は維新のあとの不安定な社会情勢の中で鉄道建設を決定しました。イギリスでの世界最初の鉄道開通から遅れること半世紀。産業をおこし、日本が欧米の先進国に負けずに発展していくために、どうしても鉄道が必要でした。そのため政府は、国策の中心となった文明開化を、鉄道建設を中心として推進しようとしたのです。

維新の明治政府は、「東京と神戸、そして琵琶湖と日本海を鉄道で結ぶ」ことを至上命題としてきました。その一番重要な地点に長浜が位置していました。そして1882(明治15)年、長浜~敦賀間の鉄道(柳ヶ瀬トンネル部分を除く)が開通し、日本の鉄道の夜明け、湖北路に陸蒸気の汽笛が力強く響きました。

イメージ初代駅長  高橋 善一氏日本鉄道の父  井上 勝氏

わが国初の鉄道連絡船就航

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長浜~大津間は、鉄道連絡船が琵琶湖に就航しました。それは鉄道建設費を抑えながら、できるだけ鉄道網を広げたいという方針によるもので、民間の連絡船を就航させて、鉄道ができるまでの代用にしたのです。1882(明治15 )年5月、太湖汽船会社は鉄道連絡船の運航をはじめました。1883(明治16 )年9月に就航した2隻の蒸気船、第一・第二太湖丸は、湖の船としては日本最初の鉄船でした。

約500総トン、350人乗りで、14 ノット(時速26km)で快走しました。外洋航路の大型船の中にも蒸気機関と帆の両方で走る船が珍しくなかった時代、14 ノットというスピードは当時としては大変な高速船でした。長浜駅舎のすぐ横に設けられた桟橋から発着し、長浜~大津間をおよそ3時間半で結び、旅客と貨物の運送にあたりました。1889(明治22)年7月に長浜~大津間が鉄道で結ばれると、鉄道連絡船は廃止されました。わずか7年あまりでしたが、これが日本で初めての鉄道連絡船でした。

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湖北に汽笛一声

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長浜~敦賀間の鉄道建設は、日本人だけの手による工事でした。建設資材は、石材を除くほかは木材に至るまですべて京阪神から運ばれ、資材輸送のため、木造外輪蒸気船「長浜丸」がつくられています。平地部の工事は順調に進み、1882(明治15 )年3月10 日、工事中の柳ヶ瀬トンネルをはさんで、長浜~柳ヶ瀬間と柳ヶ瀬トンネル西口~金ヶ崎間が開通しました。

当時わが国最長だった柳ヶ瀬トンネル(全長1,352m)は2年後に完成して、長浜~敦賀間は1884(明治17 )年4月16 日に開通しました。長浜~関ヶ原間の工事は、1882(明治15 )年6月に着工、1883(明治16 )年5月には開通するスピード工事でした。当時の長浜は、まさに鉄道のまち、そして今日に至る北陸線発祥の地だったのです。1889(明治22)年7月、東海道線新橋~神戸間の全通で、長浜の鉄道基地としての時代は去りましたが、長浜のまちに産業と文化を伝えてくれました。

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大阪~京都間よりも早く測量へ

長浜~敦賀間の測量が、はじまったのは1871(明治4)年3月のことです。神戸~大阪間は建設工事中、大阪~京都間はまだ測量もはじまっていませんでした。イギリス人技師らによる測量の結果、1873(明治6)年に大津~米原~木之本~飯浦~塩津~敦賀のルート(現在の東海道・北陸線とほぼ同じルート)が基本路線になりました。しかし、国の予算が乏しいため、すぐには着工できません。1879年(明治12)、ルートが長浜~柳ヶ瀬~敦賀(現在の国道365号線に近いルート)に変更され、長浜~大津間は琵琶湖の汽船連絡と決まり、翌年の4月、長浜・敦賀の両方向から工事がはじまりました。